烏山和紙の歴史
610=推古18年 | 中国後漢和帝の時代に蔡倫が紙を発明した。 高麗の僧、曇微が紙漉きの技術を我が国に伝えた。後に植物の粘液を用い我が国独特の【和紙】が産出された。 |
1793 | 寛政5年「諸国紙日記」泥尻清兵衛写本には、下野常陸両国から産出する程村紙、西の内紙をはじめ、40数種類の紙の名称、仕立、枚数などが記され、総括して「那須物」の名で江戸に出荷されていた。 |
1864 | 水戸天狗党の乱により、西の内紙の商権は完全に烏山に移った。 |
1887 | 明治20年那須紙業組合を設立許可される。 |
1894 | 明治27年製紙伝習所を掘抜(烏山町)に設ける。翌年高知県より製紙技師を招き産紙改良を図る。 |
1901 | 明治34年内務省令第24号により選挙人名簿投票用紙は程村又は、西の内紙と定められる。 |
1905 | 明治38年栃木茨城製紙改良同業組合(法定)を設立。当時の組合数は製紙業者934人、紙販売業者28人、原料販売業者25人、生産高94,244貫匁、価格205,050円である。 |
1948 | 内親王お二方の製紙工場ご高覧の栄に浴する。 |
1970 | 昭和45年3月烏山町教育委員会は程村紙の工芸技術を烏山町重要文化財に指定した。 |
1971 | 昭和46年2月町文化財指定を記念して烏山和紙会館が設立され、同時に程村紙保存会が結成される。烏山和紙を使用して押絵を作る福長押絵会を発足する。 |
1977 | 程村紙が文化庁より記念等の措置を講ずべき無形文化財に選択された。 |
760〜770 | 天平宝字4年の「奉写一切経料紙墨納帳」に、紙の産地20カ国の内に下野の名があり、宝亀元年の紙産出16カ国中に下野が知らされている。これから奈良時代下野、常陸地方に写経料紙の産地があったと推測される。 |
806〜809 | 大間年間に京都に「紙屋院」が設けられた。(官立の製紙工房) |
807 | 大同2年に宝珠上人が製紙の神として祖神天日鷲命を阿波の国より、鷲の小山に推進した。同社の北側に紙屋沢がある。 |
901〜922 | 延喜年間の製紙については(延喜式)に詳述されており、上納紙産出43カ国、同原料29カ国の何れにも下野の名がある。また、同式内記に下野産紙が(位記料紙)として献上されたとある。 |
1213〜1218 | 建保年間 那須十朗が向田村(現那須烏山町向田)に越前より奉書漉き立て職人を招き那須奉書を創製した。那須紙が世に出た初である。 鎌倉時代になり関東紙業が勃興に伴って再び当地法の紙漉きが盛んになった。 |
1590〜 | 天生18年那須三郎資明が大鷹紙を漉きだした。次いで棧留紙、十文字紙、そして「程村紙」を産出した。(安土桃山時代) |
1688 | 元禄元年 徳川光圀が「紙専売仕法」を始めた。これより水戸藩の製紙業は隆盛の一途をたどった。中心地は西野内村(現茨城県山方町)で「西の内紙」の名名称もこの頃に起こった。 |
1768 | 烏山を定宿とした江戸紙中間4人が、宮原八幡宮に石燈を4基献納した。同境内に現存している。この時代水戸藩の紙問屋は西野内から鷲子(現茨城県美和村)に移る。 |